2010年4月25日日曜日
マイ・ウェイ
マイ・ウェイ
そしていま終焉も近づき
私は最後の幕に向かう
友よ、君に伝えたい
自信珪もって伝わせてもらおう
充実した生涯をおくり
どんな道も通ってきた私だが
けれど何よりも、それ以上に
自分なりのやり方で生きてぎたと
後悔、もちろんいくつかある
しかしあえて言葉にするほどはない
やるべき裏は全て
誰の力も借りずにやりとげた
一つ一つ計画をたて
一捗づつ慎重に歩んでぎた
けれど何よりも、それ以上に
自分なりのやり方で生きてきたと
そう、確かに時には
己れの力以上の事をこころ みた
しかし迷いがあっても
もがき、苦しみ
立ち向がい、誇りを失わず
目分なりのやり方で乗り越えた
人を愛し、笑い、泣きもした
みたされ、別れも味わった
悲しみも癒えたいま
目分目身に驚いている
たくさんの事を経験してきたのだと
恥ずかしがらずに
私らしく堂々と云おう
自分なりのやり方で生きてきたと
男とは何を持っているのだろう?
自分以外には何もない
他人の言葉ではなく
己れの感じるがままを述べるべき
軌跡が証明する、私は正しかったのだと
自分なりのやり方で生きてきたと
軌跡が証明する、私は正しかったのだと
自分なりのやり方で生きてきたと
シンガーソングライター、ポール・アンカがシャンソンに英語の歌詞をつけた<MY WAY マイウェイ>は「私の道」ではない。「わたしのやり方」だ。
和製英語に慣れ親しんだ身にはつい「私の道」が横切る。
この違いを正確にとらえていないと、セックスピストルズのベーシストのシド・ヴィシャスが歌った<MY WAY マイウェイ>の意味が怖いくらいに全く違ってしまう。
MY WAY
And now the end is near
So I face the final curtain
My friend l'll sav it clear
l'll state my case of which l'm certain
l've lived a ife that,s full
l've traveled each and every highway
And mare much more than this
l did it my way
Regretsi I've had a few
But then again, too few to mention
l did what I had to do
And saw it through without exemptian
l planned each charted course
Each careful step along the byway
Oh, clnd more, much more thon this
l did it my way
Yes there were times, l'm sure you knew
When ! bit off more than I could chew
But throvgh it all when there was doubt
l ate it up yeah and spit it out
l faced it a:1 and I stood tall
And did it my way
l've loved. I've laughed and cried
l've had my fill,my share of losing
And now as tears subside
l find it all so amusing
To think I did all that
And may I say, not in a shy way
Oh no, no not me
l did it my way
For what is a man, what has he got?
If not himself, then he has not
To say the words he truly feels
And not the words the world reveals
The record shows I took the blows
And dld It my way
The rocord shows I took the blows
And dis it my way
その実像がどうであれ自分の支えになったミュージシャンの「わたしのやり方」とは思えない死は、ぽっかりと穴のあいた悲しみに通じる。
もう待ちわびるものがない空虚が悲しい。
特に突然に、予期しない形で、しかもあり得ないと思うミステリアスな別れ方は、痛みも大きくその分支えの大きさもより大きく感じる。
ZARD(ザード)というユニットの作詞・ボーカルを務める坂井泉水というミュージシャンの訃報がメディアから飛び込んできて、そういえばと、エルヴィスと複数のロッカーたちを思い出させる。
コンサートで観たといっても、「会った」とはほど遠いこと。もともと会ったことがないのだから死のうが、スキャンダルで消えようが物質世界の次元で考えたら同じことだ。
だがもともと支えという精神界の次元のことだから、そう割り切れるものではなさそうだ。
ただそれが行き過ぎると自他境界の脆さを露呈するかのようで不気味でもある。
自分も肯定できなければ他人も肯定できない閉塞感が痛い。
記者たちを前にしたインタビューで「イメージのようには生きていけない」と語っていたエルヴィスの健全さが懐かしい。だから派手なジャンプスーツを着てステージで躍動を可能にした。そして、自身の唄にあるように、TOO MUCH なにかにつけてやり過ぎた。
死後作られた映画「THIS IS ELVIS」の最後に死が押し迫ったエルヴィスのコンサート風景が映し出される。
太ったエルヴィスにはいつ見ても驚かされる。しかし誤解のないように断っておくが、エルヴィスが太ったというだけのことだ。つまり世に心ない人がおもしろおかしくいうような太り方ではない。もちろんアメリカにあふれている体型ではない。だからファンもそのままのエルヴィスを受け入れて同じように支援し、励まされている。
驚きのまま映像のエルヴィスは<マイウェイ>を歌う。 映像はそのままモノクロの若いエルヴィスに転調する。音は<マイウェイ>が続いている。時の経過をいやでも感じさせる。
それはエルヴィス、あなたのやり方だった。そして受け入れられないことを受け入れる覚悟をして、受け入れるすべてを受け入れて立っている姿こそ最も美しいエルヴィスのように思える。
それは奇異であり、慈愛であり、献身であり、感謝だ。人生の外的な要素をいじるだけでは人は幸福になれない。エルヴィスは叡智の必要にひとりでたどりつき最後に知っていた。エルヴィス、あなたのやり方で。
クロージングに歌われた<マイ・ウェイ>・・・総立ちの観衆の熱狂的な歓声と鳴り止まぬ拍手を最後にステージを去った。
エルヴィス・プレスリーには野心がなかったという声がある。
世界一のセールス枚数が野心そのものではないのか。
音楽は頭で考えるものではなかったか。
野心とはなんだろう?
疑問は、疑問は・・・<わたしのやりかた>の歌声のなかに消えていく・・・。
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